亡きご主人を訪ねて

当山の夜桜。たえず心に花を咲かせていたいものですね。
桜の花が美しいこの時季、毎年欠かさず京都から墓参に来られる檀家がいる。亡きご主人の祥月命日に、元気なお姿を墓前に見せにこられるのだ。毎回、お墓で読経をさせて頂くが、いつも“ありがたい”という気持ちになる。
「供養」とは、その人その人で様々な“かたち”がある。「今出来ることを、しっかりとする。」これが大切だと思う。無理に続けようとしても負担になったり、思ったこと以上をすれば続かなかったり… そうではなく、今出来ることを、しっかりとして頂くことが最善なのである。「何々をしなくてはならない」「何々をしてあげている」形式ばった言葉からは、気持ちは伝わってこないものだ。
ひとつの命が終わりを迎えた時、その存在は“無”になるのではなく、多くの記憶の中からその人に対する“思い”が生じる。その“思い”こそが心の中で生き続け、時として残された者に大きな力を与えてくれる。私は思う、肉体はやがて地に還るが、魂(精神)は受け継がれることによって、永遠に生き続けることが可能だと。
ご主人を亡くされて10年目の春、桜と同様に、墓所には故人を思う美しい花が咲きほこり、その中に微笑むご主人の姿がそっと浮かびあがったような気がした…