水子供養

母親に、優しく語りかける水子地蔵。
当山の参道の傍らに、水子地蔵がお祀りしてある。そんな水子地蔵に、時折そっと可愛らしい御菓子や花がお供えしてある。御供物を見ながら、我が子を思う親の気持ちが伝わってくる…
『水子(みずこ、すいし)』とは母の胎内に宿りながら、様々な事情により、出生できなかった赤ちゃんのことを云う。出生数が減少している現在では不条理に思われてならないが、殆どの水子は病院で処置され、供養される事もなく、現実には“闇に葬られる”存在となっている。夫婦であっても供養される方はごくまれであり、母親も心身共に傷を負い「どうしていいか分からない」というのが現状であろう。
当寺では『水子供養』をお受けしている。
今までに何度も法要を執り行ってきたが、供養をされる方の多くが、自らを責め、苦しんでおられる。水子の存在を告白するのは非常に勇気がいる事だと思う。だが、その告白により、はじめて水子は親からの供養を受ける事が出来るのである。理由はどうあれ、水子に供養を施すということは、さまよえる小さな魂に安らぎを捧げるために、ごく自然なことではなかろうか。
人間は、知らず知らずに「過ち(あやまち)」を重ねてしまう生き物である。自ら犯した「過ち」に気付き、反省し、改めることを『懺悔(ざんげ)』というが、この『懺悔』により「罪障(ざいしょう)」は消滅し、人は救われる、と佛は説かれている。
自分の心に正直になり、み佛に告白し、一心に祈りを捧げ、そして懺悔し、我が身を見つめなおすことで、明日への“糧”として頂きたい。
必要なのは、ほんの少しの『勇気』だけである…